昭和44年12月17日 朝の御理解 



 御神訓一 「障子一重がままならぬ人の身ぞ。」

 愈々人間の無力さ加減という意味を、分からせて頂きませんと、この御神訓は分かりません。あれこれ自分でいわば我力でという人には分からんだろう。分かれば分かるほど人間の知恵力で出ける事は、実は一つもない。それは神様のめぐむところであり、神様のお働きに寄らなければ、しかもお恵みを受けて行かなければ立ち行かんのが、私共であるという自覚ですね。障子一重がままならぬ。確かにそうですね。
 この障子一重向こうの事が、私共にはわからんの。それが私共の本当の姿。いわゆる実態なのです人間の実態です。そこでその前にあります心配する心で信心をせよと、こう仰せられる。心配なさる心で信心をせよと。これも非常にこのまあ難しいと思うんですね。特にあの初心の人達は、日頃の悩み心配事があると。それで神様にお願いをして来る。またお願いをするですから、そういう程度の心配からですね。
 いわゆる障子一重がままならぬ人の身ぞという自覚というのがね、出ける所からいわゆる不安焦燥。本当な事が分かれば分かるほど、心配になって来る。障子一重がままならぬ、いわば、戦々恐々とでも申しましょうか。本当の事が分かれば分かるほどそれなの。本当な事というのは、障子一重がままならぬ、私共の実際の姿。それが分かって来るのですから、心配にならん訳にはまいりませんですよね。
 そういう中からです心配のない生活。いわゆる安心の生活を、求めて行こうと言うのですからね信心とはそれなん。ですから心配する心で信心をせよとこう。それは心配があります悩みがありますよ。お願いに参りますお取次ぎを頂いて、お願いをしたけれどもやっぱり心配になる。また心配を持って帰るそれではおかげにならん。四神様の御教えの中にも、氏子が心配すれば神が心配せんで済むと仰せられた。
 二代金光様のお言葉。氏子が心配すると神が心配せんで済む。実を言うたら神に心配して貰わなければ立ち行かんのです。それを氏子が人間が自分勝手に心配をする。だからそこに神様のおかげを受けられなくなって来るんです。そこでお取次ぎを頂いてお願いをするところから、どのような不安でも心配でもですな事であっても、いわゆるお任せをするという。分からない分からないけれども任せます。
 所謂心配をここに置いておく。もうお願いをして頂いたからお取次ぎをして頂いたから。先生がはいはいと言うて返事をして下さったから。これはおかげになるとまあ、確信しまたその事を信じて帰らせて貰う。心配をここに置いて行けれる。だからおかげが頂ける状態になる訳です。だから心配があるなら心配があるほど、神様に打ち向かいなさいち。心配があるならある時はまあだ修行不足と思うて一生懸命修行しなさい。
 不思議に修行させて頂いておると、心に安らぎが生まれて来る。神様が何とかして下さるだろうという念が強うなって来る。心配があるのは修行不足だと悟れと言う様な御教えがそこにハッキリして来る訳ですね。そこでですそういう意味合いにおいての心配ではなくて。今日私がここで言うのはね、障子一重がままならぬ人の身であるという事が分かったから、いや分かれば分かる程心配が大体はあらなければ嘘なんです。ね。
 障子一重がままならぬのですから、本当の事が分かりゃ分かるほど、矢張り戦々恐々。薄氷を渡るような思いが出来て来る。それをね私共がそこへんの所までの、例えば障子一重がままならぬ人の身である。いわゆる我無力という自覚というものが出けておるようであって、出けていないところから、平気な事を言うたり横着な事をしたりするのです。分かれば分かるほど、そこんところがです。
 いわゆる実意丁寧にならざるを得ない。これで済んだとは思いませんという、謙虚な姿がですね、出けて来る訳です。私どものように、何の心得もない者は分かりませんけれども。例えば、剣道とか、柔道とか。一生懸命に精進して、もう達人の域に達するというほどしになればなるほどですね、強くなるんだから安心じゃろうと思うけど、中途半端んとがいかんですね。
 達人になればなるほど、やはりいわゆる今日のここのところで言うとです、心配な心が詰まってくるち。だからいつもその用心というのは、とても私どもの何もわからん者よりも用心しとる。それは本当な事が分かって来るからですよね。柔道の本当のまあ奥義を極めたと言った様な人達は、もう決してね道を歩くでも寒かからちゅうてから、腕ふっくらどんしてから歩く者なおらん。
 ほんなこて。私どんはもう平気で寒けりゃ、はあ寒かのやち言うて。もう腕を腹ん中に入れて袖ん中に入れてからやりましょう。これは分からんからです。ところが柔道なら柔道を極めた人は絶対こういう事をしきらん、せんのじゃなくて。危のうしてされんとこう言う。こうしておる時に後ろからパーッと羽交い締めされたら、もうどうにもいわゆる手も足も出らんのだそうです。そうでしょうね。
 こうやって腕をふっくらしておる時に後ろからパーッと羽交い締めなされたら、もうそれで動きが取れない。して見ると私共は楽ですよね。何もそれこそめくらへびにおじずであります。信心も本当な事が分かって来れば来るほどに。いわゆる実意丁寧にならざるを得ない、神様の御教えに添い奉る思いにならなければおられない。剣道の達人が、決して曲がり角を早回りはしないと、こう言うとります。
 私だんもうほんな一番近い方から、こうやって早曲がりをしますよね。けども剣道の達人はいかに達人でもです、もう出り頭に切り込まれたら、もう処置なしなん。だから、こちら、遠い方を、こう回る。すと、向こうの方から何が来てる、誰が来てるか分かるわけで。というほどしに、小さい心を使うという事でございます。それは剣道がいわば達人と言われりゃ言われるほど、その小心さというかね。
 慎重さというものは強くなると言われておるように、信心も例えば今日私が申します、心配する心で信心せよというのは、だから今まで私どもが頂いて来たあれとは、大変違うでしょう。そこが分からなね今日のところは。悩みがあるから心配があるから。その事がなか時にはもう安心しておる。いわゆる剣道の柔道の全然分からない時の事なんです。そして何かそこに起きて来るとです、それが悲しゅうなったり苦しゅうなったり、悩みはてなくなって来る訳です。
 それでお願いに来ると。そこんところを心配する心で信心せよと言う様に頂いて。だからそういう心配を吹っ飛ぶ為には、それこそそういう心配事を吹っ飛ばすほどしのです、修行をしなければならんと。そこにおかげの受けられる、いわゆる境地というものがある。心配はここへ預けて行け、親先生に預けて行けという訳なん。それが今まで頂いて来た心配する心で信心せよなんです。
 今日のはそうじゃないですね。それでも障子一重がままならぬ人の身であるという自覚に立てば立つほどに、信心が深く分かれば分かるほどに横着は出けん、わがままは出けん。いよいよ実意丁寧にならなければおられん、その上神信心しなければおられないすがらなければおられない。心配する心がいやが上にも募ってくる。だから今まで言って来た心配とは全然、いわゆる次元の違った心配なのです。
 私今朝朝の御祈念に、天地間の事寄りて整うというお言葉を頂きました。天地間天地の間のこと天地間のこと寄りて整う。どういう事だろうかと寄りて整うという事が分からん。そして今日御教えを頂こうと思いましたら、障子一重がままならぬ人の身ぞという事を頂くんです。ですから私どもがです、私の力で出ける事はございませんから、貴方のおかげを頂かなければ、立ち行かない私達であるという自覚に立って。
 そしてそこから生まれてくる、人間の本当の意味においての不安。人間なればの不安。いわゆる心配なんです。障子一重がままならんのですから不安である。その不安を私共が有り難いものにして行く事の為に、まめなとも信心の油断をすな。信心は本心の玉を磨くものぞやという、障子一重がままならぬ人の身という次の次、そこ続けての所ですね。まめなとも信心の油断をすなと。
 先ほどから申しますように、願わんでもない時、平穏無事な時。時には信心が分からないと、一つも、不安もなかにゃ心配もない。もう太平楽ども言うておる。けれども信心が分かるようになればなるほどです、実を言うたら、いかに今現在がです、どんなに太平ムードの中に例えばありましてもです。障子一重がままならんのですから、さあ一秒先の事が分からんのですからやはり、信心の油断は出けんまめなともという事は、平穏無事なという意味でしょうね。ただ健康だからという事でもございます。
 ここにまめなという事は健康。健康であってもいつ人間は病気するやら分からんぞと。お金があるから物があるから、ああ子供の出来が良いからと言うて安心しとるけれども、何時どの様な事があるやら分からん。天変地変さっきまで健康であった人が、交通禍いわゆる交通事故に遭って、もうこの世の人じゃないと言った様な事実もありますね。もうそれこそ毎日毎日新聞紙上に出て来るような状態なのですよ。
 そこでまめなとも信心の油断はされません。所謂先程から申します柔道のいわば達人ともなるとです、決して腕ふっくらなどされんと言う様な事になって来る訳です。油断は油断を一つもしておらん。何時何処から飛び込んで来ても、いつどっかから切り込んで来ても、それをオーと受けられるだけの姿勢というものをいつも作っておる。そこで私共がね。次の信心は本心の玉を磨くものぞやという事になって来る。
 絶えず限りなく改まらせて頂く事に、磨かせて頂く事にです精進させて頂いて。様々な事を通して、そこからの信心を頂いて行く事になる訳です。昨日私あの俳句の本を送って頂いておったのを見せて頂いておりましたらね、こういうその味わいのある芭蕉という、俳聖と言われた人達の俳諧人がおられましたですね昔。その芭蕉の佐賀日記という中にこういうような事が書いてあるそうですね。
 喪に入るものは悲しみを主とし。喪というのは、まあ身内の者のある方が亡くなったという意味でしょうね。酒を飲む者は楽しみを主とし。憂いに住する住まうですね。住する者は憂いを主とし。徒然に住するものは徒然ですね徒然に住まう、住する者は徒然を主とす。言う様な言葉が私何の道でも素晴らしいな。ここまで到達するともう何の道でも素晴らしい事だとこう思う。皆さんもお分かりになるでしょうが。
 で私がちょっとそれに信心の事を書いた。信心する者もどのような中にあっても、心は神様に受け、そこからそこにあらなければ頂けぬ信心を頂かなければならん。信心させて頂いてね、私共が一番私自身がです、有り難いと思う事はそれは腹の立つ事もありますよ。やっぱ情けないと思う事もあります、イライラする事もあります。けれども腹が立たなければ分からん信心があるです。
 悲しみの内に沈まなければです、悲しみでもなければ分からない味わいがあるんです。芭蕉はそういう事を言ってる訳です。世の中に例えば喪に服しておる悲しい様な時でも、その悲しい事の中に素晴らしい句が作れるという意味でしょうね。それで漫然として徒然の時、徒然の時には徒然の時で、そこから良い句が生まれてくると言うのです。もうだからいつも絶えず、心を句の事だけしか考えてない。
 句作をする事だけしか考えていない。句作をする者のこれは心得心掛けでしょうね、芭蕉は。私ども信心する者も同じ事が言えます。いつでもどんな時でも私共の心は神様へ向けられる。どんなに例えば腹の立つような事を言われてもです、その事を持って自分が伺えると言うか。そこからはあ素晴らしい、素晴らしい事が分からせてくださる。今まで知らなかった世界が、そこから開けて来るんです。
 まめなとも、信心の油断をすなという事は、私はそういう様にです、いわゆる神様と私共がいつも一体であるようなその実感がですね、ある事が私は信心に油断をせぬ事だとこう思います。よりて天地のこと、天地間のこと。天地間のこと寄りて整うという事。私共がですいわゆる、今日今日申します意味合いにおいての、心配する心で、いつも神様に、貴方におすがりしなければ立ち行かんという思いで、一心におすがりをし、まめなとも信心の油断をせず。
 いよいよ信心は本心の玉を磨くものであると、信心ここに極まったという思いで、私共が様々な事柄の中から、その事を心の砥石とさせてもらい。それを全て信心の教えとさせてもろうて行く生き方。そういう生き方をさせて頂いておるから、天地間の事が、何事でも整うて行くのだと。よりて整うのだ。ですからそういう精進をしとらなければ整わない事になる訳です。ね。私は今日はそういう風に思わせて頂いた。
 私なりではありますけれども、及ばずながらではありますけれども、振り返って見ると、はぁあれも足りん是も足りんという事ばっかりなんですけれども。けれどもそこのところはお詫びをして。詫びれば許してやりたいのが親心じゃと仰るから、詫びて詫びて詫び抜かせて頂いて、私どもが精進しておる、いわゆるその姿をそこに現して行く、取り戻して行くのであります。私で出来る事の限りはやはり実意を尽くさせて頂き、油断をせず本心の玉を磨く事に、いつも心を寄せておった。
 そういう生き方。そういう生き方であるからです、だからすべての事が天地間のこと。天地の間に起きて来る事柄全てがです、有り難い方へ有り難い方へと整うて行くのだということ。そこで私共が思いますね。拝詞に奏上いたします様に世界真の平和。世界総氏子の身の上安全をいわば日々お互い願わせて頂いておるのでございますけれども。これは願いだけではいけないなという事が分かります。
 どんなにそれは素晴らしい事でありますね。私ども信心させて頂いておる者が、世界中の事の平和を願って行く。世界中の総氏子全ての人間の事を願って行く。けれどもですよりて整う為にはです、んなら世の中の先ず殆どの人が自分の我情の為に、我欲の為に憂き身を窶しておるという事実がです、よりて天地間の事が整うて行く事にならないのです。そうでしょうが。
 人間氏子が皆金光様の信心で、そして今日私が申します様な所が分かって行けば良いのですけれども。もう先ず殆どの人がそれが分かっておりません。そしてただ自分の事だけ、自分の国の事だけ。ただ自分が幸せになるという事だけに憂き身を窶しておるのですから。その人達のために、私共は信心しなければならない。その人達のために私共が詫びて行かなければならない。
 何も解りません氏子のために、少しでも分かった私達がそこん所を詫びて行く。またそして願って行くという事にならなければならんのです。例えば合楽が今日まで、まあ、今日までの合楽の歩みとでも申しましょうか。20年間の事をジーッとこう振り返って見ますとです、様々な事が御座いました。泣くにも泣けんような事も御座いました。けれどもです、それがいわゆる愈々整うて参りました。段々段々整うて来る。
 昨日も私北京時代のあちらで酒屋を致しておりました時のお友達がひょっこりやって見えましてね。私、ひょっこりと言うが、久留米の総代であります播間さんが同道で見えられました。ちょうど、昼こう下がる時でございましたから、一緒に、まあ、お食事でも差し上げまして。私が引き揚げて帰って来た当時、ちょいちょいお金を借りに行ったりしておった方なんです。
 久留米の。おこん川のあそこは7町目ですか。十字路の所で「みね」という酒屋さん、造り酒屋さんの会社です。それが北京の方へ見えておられました。そういう関係なんです。それがまあこちらへ見えて、ここの御造営の始めの頃はちょっといっぺん見えられましたですけども、こんなになってから初めて。昨日はちょうど私の一番奥の部屋にスチームがとるためのあれが出けておりました。
 今日は奥の方にスチームが入るよという事を言ったら、もうとにかくここばこう一遍回ってから、いわゆるもうその何ちゅうですかね。整うとるち言う訳なんです。もう何から何までその行き届いた事だとこう言う訳なんです。何処ば見ても素晴らしい。例えば信心のない人が見てもです、是はとてもとてもただ事じゃない、20年前までは家に金借りに来よった大坪さんが、こういう事になって来ておるというのですから。
 とてもこれは只事っじゃなかですねち言うてから、そのまあ喜んで下さいます。それがならいわゆる天地間の事ですから。天地の間の事ですからこの様に整うて来るんですよ。是が天地以外の事だったら整いません。天地間の事ですから整うて行くのです。しかもそのよりて整うのです。いわゆる私どもがですね、障子一重がままならぬ人の身の自覚。もうとにかく自分じゃどうする事も出けないという自覚に立って。
 いわゆる心配する心で信心して来、まめなとも信心を油断をせずに、信心は本心の玉を磨くものぞやという、そこの一点に絞らせて頂いて参りましたから、この様に整うて行くんです。自分達の願いが成就すると言った様な事っじゃないて。よりてこの様に整うて来た。これからもっともっと、ますます整うて行く事であろう。ですからなら皆さんの一人一人がですよ、なら合楽のお広前で物事がすべてが。
 この様に整うて行くようなおかげを、皆さんの家庭の上にも現してお出でられなければいけないのですよ。ですから、私のような生き方の人がです、やはり世界全国に広がって行かなければならんのが理想なのです。いわゆる神様の理想実現という事は、そういう事だと思うんです。ところがそういう事がそんなら、分かっておる者はそれこそ万に一つと言うけれども、それこそ億に一つかも知れませんよね。
 そこでそういうおかげを頂いたり、そういう事が解っておる私どもがです、願って行かなければならない事、祈って行かなければならない事。そこに何も知らぬ氏子の為に私共が、皆さんの為に成り代わって詫びて行かなければならない。でなかったら世界いかに真の平和を願っても、世界総氏子の身の上安全を願っただけではいけないという事が分かる。最近具体的な例を持ってすると、私の豊美の今度の結婚式。
 27までも娘が家におるという事は、もうこれは本当に、まあ親としては心配な事なん。けれども神様は売れ損なうたからと言うて、気を揉むなとこう仰る。必ず買い損なうた者がおるから。だからお繰り合わせを願えと仰る。そこでお繰り合わせを願うて行く内にです、本当に最高のいわばです、私の方としては買い損なうた人に買うて頂いたという事になるでしょう。向こうも喜びこっちも喜ぶ。
 ならその間の事を私がどういう事をいつも申しますかと言うと、それを地で行ったという事は、成り行きを大切にして来たという事なんです。だから天地間の間の事ですから、どのような事でもです、おかげにならん事はないと言うのです。よりて整う為にです、そのよりてというところの信心。それを、ここでは成り行きを尊ばせて頂く。成り行きを大事にして行くという事なんです。
 そこで三代金光様のお言葉じゃないですが、信心する者にはです、辛抱する事が一番大切でございますと仰る。その間矢張り辛抱させて頂いて行くから、よりて整うのです。しかも、ただ辛抱しておるというだけではなくてです。只今今日ここに申しましたような事をです、行じさせて頂きながら、出けないところはお詫びをさせて頂きながらです、おかげを頂いて参りますから、よりて整うのであります。
 天地間のこと、よりて整うのでございます。為に私どもが愈々信心の奥がへ進ませてもらうというかね。心配する心で信心せよという程度のところから。今日申します心配する心で信心せよというのはですここのところの自覚、障子一重がままならぬ人の身であるという自覚に立たなければ、今日私が申します心配する心というものは生まれて参りません。そこから、本心の玉を磨くものぞやであり、ね。
 まめなとも、信心の油断をすなという事になって来るのです。本心の玉を磨く事が楽しゅうなる。いつも自分の心の中に掛け通しに掛けられる。神様を放さんで済む。いわゆる、まめなとも信心の油断をせんで済む事がです、そこから良いものが生まれて来る。いわゆる、それを、芭蕉の日記の中からの言葉を持って申しましたですね。人間の生きて行く上には、雨もありゃ、風もあるのだと。
 悲しい事もありゃ腹の立つ事もあるのだ。けれどもその中から神様を現して行く。その中から素晴らしい俳句を作って行こうという。まあ出けるのだという事なんです、その事に心寄せておけば。そういう私はなら俳諧なら俳諧をですね、俳句の勉強をする人達がです、どういう中からでも良い句をいつも、その作らせて頂く事に心掛けておられるように。私共はどのような中からでも。
 それこそ珠玉のようなもの、玉のようなものが生まれてくる事の楽しみをです。先ず身につけなければ、だから、信心は本当な、いわゆる信心の本格派という事は、言えないと思うのです。おかげ、御利益という間は、はじめに頂きました、心配する心で信心すればいい訳です。何か難儀な時に、お願いに来ればいいのです。けれどももう一つ。
 いわゆる次元の違った意味合いにおいての心配する心というものはです。私共は信心の本当な事が分かれば分かるほど、心配は募って来るのだということ。それは障子一重がままならんという事実がわかるから。もう障子一重向こうの事がどの様な事が起こって来るやら分からんのだから、すがらなければおられないという事になって来る訳ですね。
   どうぞ。